sohいう話

自由気ままに好きことを長く書きます

ダメだなぁ...と思ってからがダメ。

 

日々生活していて自分が足りていないと思うことばかり。ただ、そんな自分をもはや良しとしている自分もいる。

 

他人とお付き合いさせてもらうと意外にも「良いヤツ」「優しい」「愛されキャラ」なんて言ってもらえたりする。

でも、内心では「そんなにお人好しじゃないよ」「性格に難大アリです。」「全然たりない人間だから」と他人様から持たれるイメージを受け入れられず距離を取り、蓋をしてしまっている。自分の内面にまで自分で客観視する必要なんかないのに。

 

たりていない自分をある程度肯定してしまっているのはオードリー若林(その他割愛)などの存在が大きい。

こちらが勝手に重ねて、共感して、憧れる。

実は彼らには既に才能や能力を持ち合わせていて、そういった自分の反動をありのまま芸にして世間に認められ成功している。だから嫉妬に近い強い憧れを抱いてしまう。

 

同じタイプの人間なのに自分はそうはなれない。「あの頃はこんな風になるとはこれっぽっちも思わなかったよ」なんて数年後同窓会で久しぶりに再会した同級生には言えず、本当に教室隅の綺麗な90度の角で終わってしまうんではないかと。

そのギャップに意味もなく落ち込んで、達観していることにムカついて、そう思っているうちは綺麗な90度の角はもとい、38度くらいの角に追いやられて終わる気がする。

たかが20年そこら生きただけで何を偉そうに。

ボーイズ・ビー・アンビシャス。あなたの指先から出る「大志レーザー」は海を渡り私のところまで届いているのだろうか。

きっと大志とは無理でもどデカい夢を掲げろということではなく、少年よ(君の若さなら)どんなことにでも屈せず挑戦しなさいってことなのか。今の自分には難しいな、それに大志ってサッカー部みたいで好きじゃない。好きなタイプの運動部だとは思うよ、たぶん。

 

 

ディズニープリンセスが好きな女はテイラー・スウィフトアリアナ・グランデを聴いてやや海外かぶれだからしょうもない。

 

とか。

 

韓国文化が好きな女と一人称を自分の名前で呼ぶ女は基本信用しない。

 

とか。

 

「うわぁ...そこに開いてるんだ」ってピアスをしてる人はだいたい良いヤツ。

 

とか。

 

とんでもない偏見がいくつもある。それは常に更新され、人間観察が趣味だと妙に捗る。

そういう見方をすることで自分が生きている社会や世間に対して適切な距離を測っていると思う。その距離を作らなきゃ内心で落ち着く隙がないから。本当はメインの運動部で、TikTokで流行りの曲に敏感で、盛り上がりたいだけでフェスに行って、首につける磁気でバランスを取るやつして、AAAやLDHはしっかり抑えてるパリピのような人間になりたかった。もしかしたらその世界線もあったかもしれない。彼らはこちら側のことなんかきっと気にも留めずその瞬間を全力で楽しむのだからさぞ人生を満喫しているであろう。その感覚が一生味わえないと思うほど悲しくなる。

 

それでも最近は自分のなかで少し変化がある。今までは"あっち側"が好むようなカルチャーを笑っていた。だけど、「自分は好きじゃないけど、彼らは好きで、それはそれで良いじゃん」と思えるようになったし、自分も引いてるからこそ興味を持とうと触れてみたりするようになった。これは小さいけど大きな成長なのだ(ただし根底にある観念は絶対変わらない)。

心のなかのモデルルームをIKEAの家具で揃えてたけどいくつかニトリにした。IKEAって実は組み立てるのが大変で買ってからが勝負だからそこで疲れちゃう。でもニトリはお値段以上でなんか簡単そうだからその分気持ちが軽くなる。そんな感じ。案外イケてんじゃん。

 

偏見の話に付随すると、嫌いなこと苦手なこともやたらと多い。

 

今年の4月から新社会人として働きだして、また新しい環境や生活に呑まれながら毎日を過ごしている。もちろん新生活には初めての人が付きもので、いわゆる「人付き合い」が要求される。人付き合いが嫌いなわけではないし、基本インドアだが誘われればフットワークは軽い。

じゃあ何が苦手かというと、「他愛もない会話」である。これが自分と似た全ての人を悩ませているはず。それを社会人になって気付いてしまったのだ。

 

「休みの日は何してるの?」

初対面では無難かつその後趣味や違う話題へと発展しやすい「他愛もない界」では超大御所。

 

「(めんどくせぇ...)」

 

休みの日なんて何もしてねぇよ。YouTube見るか、映画観るか、読書するか、ゲームするか、寝るかぐらいしかない。そして気づいたら夕方のニュース番組が始まって休みの終わりを感じる。それだけのこと。

急にこの質問がお題となってIPPONグランプリが始まる。何を考えてもせいぜい7ぐらいにしかならない答えばかり浮かぶ。0よりタチが悪い、いっそのこと0を出してしまったあの空気になればいいのだがそれも高度である。

 

「(めんどくせぇ...)ラジオ聴いたりバスケ観るのが好きで(ry」

 

ラジオを聴くんだ意外だねぐらいで後は自然消滅する。そりゃそうだ、だってお互いが「他愛もない」のだから。

趣味などは一見話の種には最適で会話として跳ねるイメージがあるが危険である。探り合いになるわけだし、相手から聞き出せた内容が自分と合わないと結局は話が発展しないので難しい時間を要求される。

趣味が本当の力を発揮するときは会話のツールではなく、なんとなくさりげないタイミングでその趣味が垣間見えたときに一番効力がある。

 

例えば、

読書が趣味だとして、他愛もない会話の餌食になった読書で進んでしまうと、

「趣味は読書です」

「どんなの読むの?」

「◯◯、△△の作品が好きでよく読みます。ジャンルだと推理系ですかね。」

「私も好き、◯◯だとあの作品が面白かった」

 

と、これだけ広がれば上等だがこれ以上もない。

 

のに対して、今まで一切そういった話をせずに休憩時間などにふと本を読んだりしているのを同期や先輩に見られ「本とか読むんだ」となれば、実際読んでいる物もあるわけで、後は同じような会話をしたりして「では、私は読書に戻ります」という雰囲気を出すことにより会話は終わりそっとしておいてもらえる。

会話が終わった後のケアも大事。音楽をブツ切りされたように突然終わった会話の後に残るなんとも言えない虚無が耐えがたい。そっとしておいてフェードアウト。

 

 

便利グッズも嫌い。

まず何が嫌いって鼻から便利グッズを使おうと諦めている消費者。

テレビなどで「この便利グッズを使うとこんな簡単に!」みたいな紹介コーナーを度々見るが、「それ使うことで洗い物増えんじゃん」「そのグッズ使うことで他にも器具必要じゃん」「結局普通にやった方が早くね?」と企業側からしてみたら厄介もいいところ。便利グッズを必要としていない消費者に便利グッズが刺さるわけがない。そして何よりも便利グッズで最初から楽しようとしている消費者に腹が立つ。だからいつまでも家事や生活が上達しないんだよ。便利グッズというのは痒いところに手が届くものでなければならないのに、「痒くもないのに横着をするなバカタレ!」とどっかの誰かに勝手にキレてる。

 

ママ友も嫌い。

同じ境遇がいることで心強いのは分かるが、詰まるところ子育てや家庭のあり方はその家族によって異なるし、群れて仲間意識を高めているだけでそう安易と"ママ"が務まってたまるか。

男という生き物は稼ぎに行き家族を養えばいいだけだから母親というのは毎日仕事や育児に家事とその何倍も大変。だから男も手助けしてあげなければならないし、分担できることはする。「今日は俺が家のことやるからたまには友達とご飯に行ってきな」ぐらいの気の利いたことを言ってやれ。お互い時間がないのは同じ、その中で支え合って一緒に生活するのが家族だろ。ママ友と呑気にランチなんて(これ以上はまずい) こんな意見言おうもんならボコボコにされそうな現代ですが、私はそう思う。

 

 

常にこういったことを考えているし、自分は性格が悪いなとつくづく思う。テレビでバラエティ番組を見ていてもずーっと文句を言ってる。それがストレス発散。それは家の中だけで誰かを特定するわけでもなく勝手に流れているテレビに対してだからこそできる。それにテレビっ子だからちょうどいい。テレビに向かって言うような日常思っていることは外では絶対言わない。だってそれは違うじゃん?

 

長々とたりない自分について書いてきたものの、やはりこのままではいけない、こういうところがダメだから変えていこうという意識はもちろんある。そして実行しようとするもできずできなかったことに落ち込む、どうせできねぇよって開き直ってのループ。よく考えれば何も成長していないし、これから先自分の人生においてもっと大きな影響がない限りそう簡単に変われないのかもしれない。

 

母親がその都度言っていたことがある。

「人の気持ちは変わるけど、性格は変わらないからね」

必ずしもそうとは思わないが、それっぽいことを言う。母親の言うことは聞いておけとよくいうがその通りである。母は偉大なり。

こうしようああしようという気持ちや意識は変えられても、根本にある性格はなかなか変わらないから上手く付き合うしかない。

仮に性格が変わったと思ったときそれは本当の自分なのか新しい自分なのか。新しい自分が本当の自分として受け入れられるのか、居心地が良いのか。そんなこともっとジジイになってから悩めばいいことなのに今から考えてる辺り性格は変わらないのである。母は偉大なり。。

 

仕事でも怒られる毎日で、日常生活を過ごしていてもたりないと感じる。不器用で要領が悪いからこそただひたむきに一生懸命努力するだけなんだとシンプルなことにようやく気付けた。去年の自分より今年の自分が成長してなければ焦るべきみたいな言葉を聞いた気がするが、そりゃそうだろっていう。365日という時間があってひとつも変化がないなんて焦った方がいいに決まってる。個人的には毎年成長しているとは思う。だけれど心はひとつも変化してないことに焦ってないのが皮肉だね。まだまだ平常運行暴走機関車

 

「ほんとダメだなぁ...」と思ってからがダメ。